【第238講】入国前の細川家に残る記録

れき女
5月の連休は、県立美術館に永青文庫、八代市立博物館、田原坂資料館など回って…、図録だけは大量にそろいました。
先生
そりゃあ…、重かったね。
れき女
美術館でのシンポジウム「震災と復興の歴史を振り返る@熊本」にも参加。では質問です。
先生
なぜ会場で聞いてこない?
れき女
質問するほどの理解力が間に合わなかっただけです。
先生
なるほど…。はいどうぞ。
れき女
熊本地震から1年。テーマは、改めてここ熊本での地震を歴史的に見て検証するものでした。
先生
歴史に残る地震や災害記録を研究に生かすことが必要だ。
れき女
熊本での地震の最古記録は、天平16(744)年。「続日本紀」に記されているそうです。
先生
文献として残った史料があるということじゃ。それ以外、地震が無かったということではない。
れき女
そうか、そうですよね。
先生
権力者が記録を残したり、被害に遭った者が家訓として残す。後は忘れて日々を生きていく。
れき女
お城の被災は、所有者の殿様が残す。永青文庫に記録が?
先生
熊本城の被災履歴は、寛永2(1625)年の「万覚書(よろずおぼえがき)」が最初。細川家奉行所の執務日誌の記録だ。
れき女
お城は加藤清正が慶長12(1607)年に完成させた。細川家が肥後入国するのは寛永9(1632)年…。
先生
そう。熊本は加藤忠広の時代だ。当時、細川家の忠利は豊前領主で小倉にいた。
れき女
なぜ細川家の日誌に?
先生
小倉から熊本へ見舞いに行った使者2人の報告書だ。
れき女
お見舞いに行ったんだ。
先生
「天守をはじめ城内の建物は瓦や梁がことごとく落ち…柱だけが残る」ありさま。
れき女
ひどい状況ですよ〜。
先生
「城中では50人が死に煙硝倉が爆発した」と続く。周辺500〜800メートルは被災した。
れき女
見舞いより現地視察?
先生
現場の情報は必要かつ不可欠。特にこのころは。そしてこれが後の貴重な史料となったわけだ。
れき女
小倉にいたけど熊本の地震の被害状況は把握していた。だから寛永10(1633)年の地震で、忠利は「危なくて本丸にはいたくない」となるんですね。
先生
忠利は林立する櫓や何重もの石垣が怖かったのだろう。地震の記録に記憶が加わったからね。
第238講
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