【466号】街のランドマーク 熊本市内中心部の白川に架かる橋の名前 知っていますか?(上)
熊本市内を流れる白川には、橋が幾つも架かっています。特に市内中心部は狭い間隔で架かっていて、「銀座橋を渡ったところを…」など、橋をランドマークに道案内されることもしばしば。でも、どこのどの橋か分からない…? そこで橋の名前を整理してみると、それぞれに歴史もありました。今回は、大甲橋より上流に架かる橋を紹介します。
大甲橋から白川の上流を眺めると、立田山を望む風景が広がります。奧に見えるのが新しく架け替わった明午橋
01 龍田大橋(たつだおおはし)
国道3号、通称「北バイパス」の一部にあたります。右岸の北区龍田陳内と左岸の東区下南部をつなぎ、県道337号、豊肥線、白川をまたぎます。
白川第二橋梁
02 小磧橋(おぜきばし)
右岸に横穴式の墓域があったり、左岸では1400年前の住居跡の発掘調査が行われたりしたことから、古くから人々が川沿いに生活の場を築いていたことが分かります。現在は、住居跡は埋められています。
03 龍神橋(りゅうじんばし)
健軍水源地から立田山配水池へ送る上水道管が通る橋。橋の名前は、右岸の北区龍田の地名と健軍水源地がある中央区神水の地名から、一字ずつとって付けられたという説もあります。行き交う車が譲り合いしなければならないほどの狭い橋でしたが、平成29年、架け替えによって拡幅され、片側に歩行者と自転車専用レーンもできました。
現在、橋周辺を整備中です
04 子飼橋(こかいばし)
江戸時代から、子養(こかい)の渡しと呼ばれ、渡し舟が置かれていました。明治時代に橋銭(通行料金)が必要な橋が架かりましたが、大水害で流失。その後は、水量が少ない間は橋が架かり、流れると渡し舟を利用していたとか。その後、大正14(1925)年、鉄筋コンクリート橋が架設されました。
橋の両側に設けられた青い舗装の自転車専用道。これがあると歩行者も安心!
昭和28(1953)年の6・26水害の際は、流木が詰まり大江側の橋際が決壊して大被害を出しました。「子養」と呼ばれたのは、この地域が養蚕の盛んなところだったためで、明治期に「子飼」と改まりました。
05 明午橋(めいごばし)
中央区新屋敷と千反畑を結びます。明治3(1870)年=庚午(かのえうま)の年に架橋されたため明午橋と名付けられました。幕末以降、新屋敷に武家屋敷が増えると、下流の安政橋だけでは不便となり架けられました。西南の役では、熊本鎮台の突囲隊が城外に出る時、援護のための隊がこの橋を渡って進出したことでも知られます。
白川の川幅を広げる河川改修に伴い、平成30年、新しく架け替わっています。
06 大甲橋(たいこうばし)
県道28号・熊本高森線や、市電が通る橋。大正13(1924)年=甲子(きのえね)の年に架けられたことからこの名に。熊本市電水前寺線の工事に伴って架橋され、当初は路面電車のみが走る予定でしたが、地域住民の意向を反映し、人も車も通れる橋が架かりました。
橋のたもとには、武者返しの石垣に加藤清正の長烏帽子兜(ながえぼしかぶと)が控えます
へぇ〜、そうなんだぁ! 橋と川にまつわる豆知識
知っているようで知らない話。きっと何かの役に立つ?豆知識をご紹介します。
橋の入り口と出口
橋には入り口と出口があるそうです。橋を通る道路の起点側が「入り口」で橋の名前が漢字で書かれています。そして反対の「出口」には平仮名で橋名が書いてあるんですよ。
色が付いた川?
県内には色が付いた川が3つ流れています。阿蘇南郷谷から熊本市の中心部を流れる白川、阿蘇五岳の北を流れ立野付近で白川と合流する黒川、九州脊梁(せきりょう)から熊本市南部へ流れる緑川の3つ。といっても、色付きの水が流れているわけではありません。「白川水源が有名な白川は、水が澄んで清いことから、黒川は火山灰の泥土で濁っていたため、緑川は川沿いの杉が川面に映えて美しかったから」だそうです。
【取材協力】NPO法人 白川流域リバーネットワーク
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