【485号】熊本城周辺を流れる 坪井川に架かる橋の名前 知っていますか?
市街地を流れる川に架かる橋の名前と由来を探るシリーズ。白川に続き、今回は熊本城周辺を流れる坪井川に架かる橋を紹介します。橋の名前から、時代背景や熊本の歴史が垣間見えてきましたよ。
明八橋。山都町の通潤橋や東京の旧京橋などを手掛けた石工・橋本勘五郎が架けた石橋
01 厩橋(うまやばし)
熊本城本丸の南東、熊本城稲荷神社前に架かる橋。橋の南に藩の厩があったことからこの名に。厩跡には明治5年以降、監獄署がありましたが、大正5年に渡鹿に移転。その後、同12年に熊本市庁舎が置かれました。加藤清正による坪井川の付け替え工事は、この辺りから。
橋の名が書かれた親柱は熊本城の石垣・武者返しをモチーフ
02 行幸橋(みゆきばし)
城内へ入る際は、表入り口のここで馬を降りる規則だったため、かつては「下馬橋(げばばし)」と呼ばれた橋がありました(現在はありません)。明治35年、熊本地方特別大演習に明治天皇が行幸されることになり、急きょ、第六師団によって、下馬橋の下手に新たに架けられたのがこの橋。一帯には桜が植えられ、今も桜の名所になっています。撤去された下馬橋の橋脚と石柱の一部は現在、熊本高校の正門に利用されています。
行幸坂横にある熊本城と書かれた石碑。熊本地震でクルッと向きを変えています
川に沿った遊歩道。コイが泳いでいるのを発見!
03 船場橋(せんばばし)
船場の名は、清正の坪井川の付け替え工事の際に、高橋方面からの舟が上がれるよう、船着き場を川の両岸に設けたことから生まれたとか。市電段山線が敷設される昭和4年、木橋から鉄筋コンクリート橋に。
肥後手まり唄にちなみ、両親柱にはタヌキとエビの彫刻があります
04 明十橋(めいじゅうばし)
江戸時代には、新町と古町を結ぶ橋は「新三丁目橋」と「船場橋」しかなく、交通量の増加に伴い、明治10年に明八橋と同じ橋本勘五郎が手掛けました。今も車の往来が多い現役の橋。
橋の脇には、大正8年にできた旧第一銀行熊本支店
05 明八橋(めいはちばし)
明治8年に架けられたことから「明八橋」。江戸時代は、ここに板橋(新三丁目橋)が架かり、新町に入るところには「新三丁目御門」が置かれていました。現在は、歩行者と自転車が通れます。
06 祇園橋(ぎおんばし)
大正13年、市電幹線の敷設時に架けられました。橋の名前は、近くにある北岡神社の別名から。同神社は、京都の祇園社(八坂神社)の御分霊を勧請したため祇園社と呼ばれており、この辺りは、ほかにも京都を思わせるものが点在しています。
奥には高層マンションなどが見えます
小沢橋(おざわばし)
町名は”こざわまち”なのに、橋にはなぜか”おざわばし”と刻まれています
坪井川は昔、白川と合流していた!
坪井川は、北区改寄(あらき)町辺りを源として、熊本城下を流れ西区小島から有明海へと注ぎますが、元々は厩橋辺りで白川と合流する川でした。えっ、白川と合流!? 現在、2つの川は交わることなく有明海へと注いでいるのに、どういうことでしょう。
戦国時代の白川は、現在の代継橋から長六橋にかけて大きく北側へ蛇行していて、そこへ東から坪井川が合流していたのです。流路が入り乱れていたことで,何度も氾濫を繰り返す暴れ川だったそう。そこで、加藤清正が代継橋から長六橋にかけての蛇行部分を直線化し、洪水被害を減らしました。白川と切り離された坪井川は、お城の内堀として、また城下への舟運の水路として活用されることになったそうです。
加藤清正が行った治水事業の一つ、白川と坪井川の付け替え工事
白川に架かる橋は4/5付、4/12付に掲載。
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