【535号】くまもと戦争遺跡を訪ねて
終戦から75回目の夏。昭和、平成、そして令和へと時代は移り、記憶の風化も一層進んでいます。そこで今回は、県内各地にある戦争遺跡を紹介。被爆地の広島や長崎、激戦地・沖縄、特攻基地のあった鹿児島県知覧など“特別”な場所に行かなくても感じることができる戦争の痕跡。節目の夏に“戦争と平和”について考えてみませんか。
戦争の実相を知り平和への思い新たに
県内各地に点在している戦争遺跡ですが、その存在を知る人は多くありません。今回、「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」代表の髙谷和生さんに案内してもらい、すぱいす読者の橋本さん親子が戦争の悲惨さ、平和について学びました。
地域に残された戦争の姿を検証、未来へ伝えていく
今年は戦後75年の節目の年です。私たちが住む熊本も、戦争末期に戦場になった痛恨の歴史があります。現在、戦後生まれが人口の8割を超え、私たちが戦争体験者の証言を聞く機会は急速に失われようとしています。
私たちの団体では、熊本県内に残された「戦争遺跡」に焦点をあて、調査、検証を行っています。私たちが確認したところ、県内には陸軍や海軍の飛行場関連施設や航空機などの生産施設、砲台など723件の戦争遺跡が点在。その中には、「軍都」と呼ばれた熊本市の歴史を伝える遺構や特攻機の中継基地となった飛行場跡なども含まれています。
戦争関連の遺跡や遺構は、客観的に戦争の実相を伝える「物言わぬ証言者」です。戦争の記憶が薄れつつある今、戦争遺跡を保存し後世に伝えていくことは価値のあることだと考えています。遺跡に触れることで戦争の悲惨さを改めて知り、多くの皆さんに平和の大切さを感じてほしいですね。
くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク
代表 髙谷 和生さん
戦争の記憶を伝える機会として、県内各地の戦争遺跡を巡るバスツアー「くまもと戦争遺産の旅」や熊本市立図書館での平和展などを主催
8月15日には、これまでの調査・検証をまとめた髙谷さんの著書『くまもとの戦争遺産』(熊日出版、2530円)が県内主要書店で発売されます
黒石原(くろいしばる)飛行場・奉安殿(ほうあんでん)(合志市)
所:合志市豊岡1900-29(黒石原コミュニティーセンター前)
若き訓練生が受けた 戦前・戦中の教育を知る
1941年、逓信省熊本航空機乗員養成所として開所した黒石原飛行場では、操縦士や機関士を目指す534人の若者が訓練に励んでいました。この飛行場跡に残されていた奉安殿は、天皇・皇后の御真影(ごしんえい=写真)や教育勅語(ちょくご)などを安置した場所。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指令により全国の奉安殿が撤去される中、黒石原の奉安殿は県内で唯一、原形・原位置を留めて残る貴重な遺跡です。
養成所では行事の際に、奉安殿前で教育勅語奉読等の儀式が執り行われました。 13〜15歳の訓練生が一般の旧制中学校と同等の教育を受けていたことがわかります
三菱重工業 熊本航空機製作所 本工場
所:東区東町(陸上自衛隊健軍駐屯地内)
熊本でつくられた航空機が戦時中の空を舞った
陸軍航空本部からの航空機増産の指示を受けた三菱重工業は、1942年、敷地にゆとりのある健軍に陸軍機工場を建設しました。本工場では、終戦までの間に最新鋭陸軍四式重爆撃機「飛龍」が46機生産され、そのすべてが実際に飛行しました。現在、当時の敷地の半分が陸上自衛隊健軍駐屯地となっています。
※現在、新型コロナウイルス感染予防のため、関係者以外の健軍駐屯地内での見学はできません
当時の「第一組立工場」は、現在も同駐屯地内に残っており、車両や器材などの整備工場に利用されています
工場内の様子。製作所へ物資を搬出入するために、国鉄水前寺駅から工場まで専用鉄道軌道が敷設されていました。その跡は、現在も“引き込み線”の通称で道路として住民の生活を支えています
歩兵第十三聯隊(ほへいだいじゅうさんれんたい) 正門、食堂・酒保所(しゅほしょ)
所:中央区大江
陸軍の一大拠点が置かれた「軍都」熊本の記憶を伝える
市街地(二の丸)にあった歩兵第十三聯隊は大正期、現在の大江・渡鹿地区へ移転しました。軍都・熊本を象徴する遺跡の一つとして、聯隊の正門と食堂・酒保所の跡が残されています。正門はイギリス積みの煉瓦(れんが)造で、右門は大きく優美な曲線を描いています。食堂・酒保所跡は現在、熊本学園大学の第二体育館として利用されています。
※現在、新型コロナウイルス感染予防のため、関係者以外の学園大学構内での見学はできません
産業道路から熊本学園大学付属高校へ入る道路脇にある正門跡。右門はKKTくまもと県民テレビ敷地内に、左門は対面のマンション側に残されています
特徴的な造りの食堂・酒保所(売店)跡。1923年の関東大震災以降に建てられた軍施設として、強固に建築された様子がうかがえます
再開発が進む桜町・花畑町周辺も、熊本大空襲では焼け野原に。75年前に米軍が撮影した写真を手に説明する髙谷さん
大甲橋の際に建てられた熊本大空襲慰霊碑。1回目の大空襲の際、猛火の中を逃げ惑う市民は、白川へ飛び込むなどして戦火をしのいだと伝えられています
〜戦争遺跡を巡っての感想〜
これからも勉強していきたい
修学旅行で訪れた長崎の原爆については知っていたけど、自分が住んでいる熊本で空襲があったことは知りませんでした。戦時中に熊本で起きたことも学んでいきたいです
他の戦争遺跡も訪れたい
熊本で生活していながら、熊本に軍の飛行場があったことや航空機を作る工場があったことなど知りませんでした。とても勉強になったので、家族で他の場所にも行ってみたいです
県内に点在するその他の戦争遺跡
今回巡った場所など熊本県内には723件の戦争遺跡があります。石炭の軍事利用、本土決戦に備えた飛行場や砲台など、戦争の記憶を今に伝える4つの遺跡を紹介します。
東京第二陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)荒尾製造所(荒尾二造)
所:荒尾市増永
1940年当時、国内でも最新の設備を備えていた陸軍の火薬工場で、三池炭鉱の石炭などを原料に黄色火薬・茶褐色火薬などを製造。空襲の被害もなく、終戦の日まで稼働していました。
菊池飛行場(花房・隈府飛行場)
所:菊池市泗水町など
1940年4月に開隊した陸軍の施設で、当時、県内最大の飛行場。1945年5月13日の空襲で多くの建物が破壊されましたが、現存する給水塔は菊池市指定文化財に登録されています。
隈庄飛行場(舞の原飛行場)
所:南区城南町
1941年6月に大刀洗陸軍飛行学校隈庄飛行場として開設され、終戦間際には特攻隊の中継基地にも利用されました。跡地の「火の君文化センター」には平和の記念碑が建っています。
久玉小松崎砲台(天草)
所:天草市久玉町
戦時中、九州防衛の拠点として基地が整備されていた天草。近海の富岡水尻や長崎樺島、長島北方崎などの湾口部に6基築かれた砲台の一つが現存し、当時の面影を残しています。
海のない山の中の海軍基地と膨大な地下施設郡
山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム(錦町立人吉海軍航空基地資料館)
山深い球磨郡錦町木上(きのえ)地区で発見された人吉海軍航空基地跡は、太平洋戦争末期に建設されました。「戦争とは何か、平和の大切さについて考えるきっかけになれば」と、歴史体験型ミュージアムとして2年前にオープン。展示資料の他、錦町観光協会認定ガイドによる地下魚雷調整場等の見学ができます。
店舗情報
山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム(錦町立人吉海軍航空基地資料館)
- 住所
- 球磨郡錦町木上西2-107
- TEL
- 0966-28-8080
- 店舗ホームページ
- https://132base.jp
- 営業時間
- 10:00〜16:00
- 休業日
- 年末年始
- 料金
- 高校生以上800円、小・中学生500円(地下魚雷調整場ガイド料・保険料含む)※カフェ利用の場合、施設入館料は不要
コメント
0