【592号】生活物資を運んだ「民の道」 日向往還 編

熊本に残る四つの街道のうち、これまで薩摩街道、豊前街道、豊後街道と三つの街道を紹介してきました。そして残る日向往還は、参勤交代の行列が通った三つの街道とは違い、庶民が生活物資を運んだ生活の道です。「民の道」ともいわれ、さまざまな歴史を感じられるスポットが沿道に点在。県内の見どころを訪ね、往時をしのびました。

【熊本四街道】

熊本にあった四つの街道。その一つ「日向往還」は熊本と延岡を結ぶ136km。九州山地の尾根などにも道が残ります

「往還」と「街道」の違い

厳密な違いはありませんが、「街道」は大名が参勤交代で使うために整備された道、「往還」は商人や町人が通った道をいうことが多いようです


日向往還を訪ねてみました

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案内してくれたのは

日向往還顕彰会
生田 真也さん

札の辻から延岡まで、可能な限り忠実に日向往還をたどったことも

実際に訪ねてみると歴史を感じますよ


昔の人が歩いた道筋 今は車が多く行き交う

熊本市から各地へと向かう熊本四街道の起点は、中央区宮内の清爽園入り口付近の「札の辻」。生活物資が行き交った日向往還もここから始まります。新町を通り、明八橋、長六橋を渡るまでは薩摩街道と同じ。迎町から御船口へと向かい、琴平神社を過ぎたら旧浜線へ。ここから中の瀬橋近くまでは、ほぼ旧浜線の道筋と一緒です。

1【御船口】

「右みふね、左きやま」と刻まれた道標が残ります。木山へ向かう木山街道との分岐点

2【一里木跡碑】

札の辻から1里。バス停にその名が残ります。当時は、1里ごとに道の両側に榎(エノキ)が植えられていました

3【放牛地蔵 第一体目】

江戸時代の僧・放牛が修行のため100体以上作ったお地蔵様の1体目。自分のせいで死なせた父親への供養のため建立したといわれています

4【二里木の道標】

加勢川の堤防の上に建てられた碑。札の辻から2里の場所

5【はぜ並木】

江戸時代前期、米の代わりにハゼの実の上納が認められると、県内各地で栽培が奨励されました。御船でもたくさんのハゼの木が植えられました

6【清正公指揮所跡の碑】

加藤清正公がこの一帯の河川改修を指揮した場所。でも堤防を築くたび、八頭の龍が現れ堤防を壊したそうです。そこで龍神を祭ったところ、収まったという言い伝えが残ります

7【今城の道標】

「左やべ 右かうさ」の文字が記された自然石の道標

8
たった2日だけの県庁跡を発見

西南戦争が始まった明治10年2月19日の夜、熊本県庁が戦火を避け御船小学校に引っ越してきました。しかし、薩軍や旧士族らの包囲に危険を感じ、公金や書類を守るため2日で逃げ出し、熊本城内の古城(ふるしろ)に戻りました。


先人の息吹を感じる 県内往還のハイライト

国道445号を通り御船町に入ります。御船川の堤防沿いに進み、御船I・Cを過ぎたら軍見坂(ぐみざか)へ。軍見坂は、西南戦争では薩摩軍が敗走した場所でもあります。「右やべ 左あそ」と刻まれた茶屋本にある道標を右に折れ八勢(やせ)眼鏡橋へ。豪商が私財を投じて造った丈夫な石橋のおかげで物資の流通が盛んになり、年貢米、茶、シイタケ、材木が御船や熊本に、山間地の矢部方面には塩などの生活物資が届けられました。また、種田山頭火が「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだのは、この辺りではないかともいわれています。

9【門前川眼鏡橋】

日向往還を行き交う人や馬が通った石橋。輪石のズレ止めとして、つなぎ目にくさび石が打ち込んであります

10【六地蔵】

六面体の地蔵菩薩。地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天道のそれぞれの苦しみを六体のお地蔵様が救います

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西郷隆盛が官軍の情勢をこの坂から確認

軍見坂に見晴らしがいい場所があります。西南戦争では、西郷隆盛がここから御船城跡辺りにいる官軍の様子を見たといわれ、軍見坂の名の由来になっています。また戦国時代、阿蘇家の家臣・甲斐宗運が、謀反を起こした御船房行に勝利した激戦地との一説も残ります。

12【凱旋門】

軍見坂を越えた五里木跡辺りで、道の両側に建立された高さ3.5mの石柱。日露戦争に従軍した兵士の帰りを迎えました

13【鼎春園(ていしゅんえん)】

倒幕運動の先駆けとなった志士たちを指導した宮部鼎蔵(ていぞう)の偉業をたたえた銅像があります。宮部は、京都の池田屋で新撰組の襲撃を受け自害しました

14【茶屋本の道標】

「右やべ 左あそ至る」と道を示します

15【八勢眼鏡橋】

八勢川が氾濫するたびに木橋が流失する不便で危険な日向往還最大の難所でした。そのため御船の豪商・林田能寛(よしひろ)が私財を投じて架けた橋が八勢眼鏡橋です。春は桜を楽しむスポットとしても人気

16【八勢の石畳】

150段余りの石畳の段と坂道が500mほど続きます。西南戦争では、逃げる薩摩軍がここを通りました


町並みに宿場町の名残を感じる

県内の日向往還の宿場町として栄えた浜町と馬見原。白壁土蔵作りの旧商家や町の雰囲気が往時のにぎわいを伝えます。浜町から馬見原へ向かう国道218号の途中、男成神社を過ぎた辺りで左手に曲がると「山屋のトンネル」の小さな案内があり、山道に入ると目の前に手掘りのトンネルが現れます。薄暗いトンネルで、険しい道筋だった往時の様子が伝わってきます。

17【備前屋】

西南戦争の際、西郷隆盛が軍議を開いた居間。現在の通潤酒造。店舗および主屋(おもや)は浜町における最大規模の町屋として登録有形文化財(建造物)に登録予定

18【山屋のトンネル】

阿蘇溶結凝灰岩を手掘りした長さ22m、幅2.1m、高さ3.2mのトンネル。四街道の中でトンネルがあるのはここだけ

19【馬見原の町並み】

宿場町の繁栄の面影が残ります。肥後藩だけでなく岡藩の藩札も通用するほど交易が盛んでした

20【夫婦岩】

馬見原橋のたもとで向かい合う大小2つの岩。大きなしめ縄が掛けられていました

21【火伏地蔵堂】

無火災を願って建立された地蔵堂。毎年8月には、地蔵御輿(みこし)を五ヶ瀬川に何度もつける勇壮な「火伏地蔵祭り」が行われます


昭和初期まで庶民が歩いたルート

日向往還は、熊本と延岡を結ぶ九州を横断する古道。毎年3月には、御船から浜町と、浜町から馬見原までの歴史の道を歩く「日向往還歴史ウオーク」が開催されています。自然の中の散策は、一気に往時へとタイムスリップできますよ(昨年度はコロナ禍で中止。本年度は3月に実施予定)。

【高千穂・槍(やり)飛び橋】

五ヶ瀬川で最も川幅の狭いところ。安土桃山時代、槍の柄を地面に突き勢いをつけて飛び渡ったことからこの呼び名がつきました。

【延岡城の石頭】

日向往還の終点は、延岡城下・岩鼻付近。延岡城は、初代延岡藩主・高橋元種が築城。現在は石垣が残ります。