【401号】すぱいすフォーカス – 幕末維新期 編 西郷さんと熊本[上]

明治維新から150年。今年は、維新の立役者の一人・西郷隆盛(南洲)が、いろいろと注目を集めそう。そこで、意外と知られていない西郷と熊本の関わりや、ゆかりの地を、熊本市内を中心に2回にわたって紹介します。お話は熊本博物館の木山貴満さんに聞きました。

お話を伺ったのは

熊本市立 熊本博物館 学芸員(歴史)
木山 貴満さん

専門分野は、熊本近世後期から近代初期政治史等と、幕末維新期軍事史に関して研究

木山 貴満さん

西郷は江戸時代から、何度も熊本を訪れています


熊本藩士と交流 西国巡幸に随行

長岡監物宅を訪問 熊本藩士と勉強会も

西郷隆盛と熊本は、西南戦争以前から深い関わりがあったそうです。「特に熊本藩家老の長岡監物(けんもつ)と親交を持っていたようです。嘉永7(1854)年、西郷が島津斉彬(なりあきら)に随行して江戸に上ったとき、浦賀警備の総帥として赴任していた監物と知り合い、以来、親しく交流しています」と木山さん。安政4(1857)年には、鹿児島から江戸の行き帰りに2度、熊本の監物宅を訪ねました。「西郷は、諸藩で信頼できる人物の一人として監物の名前を挙げ、彼を高く評価していました」。同じく熊本藩士の津田山三郎とも交流があり、双方が江戸にいた際、月に2回、水戸藩士も交えて勉強会を行っていたとか。

「さらに維新後、明治天皇の西国巡幸の際にも、西郷は随行して熊本を訪れているんですよ」と木山さんは教えてくれました。


島津斉彬に従い立ち寄った? 休息所

御馬下(みまげ)の角小屋(かどごや)

江戸時代の庄屋で、質屋・酒屋を営んでいた堀内家の住宅。参勤交代で豊前街道を往来する細川・島津などの大名が休息所として利用しており、島津斉彬とともに西郷も立ち寄ったとみられます。篤姫も輿入(こしい)れのため江戸へ向かう途中、ここで休息しスイカを食べたという話が残っています。内部は、御成の間・次の間・御用人の間など大名一行のための部分と、店舗や茶の間など商家の部分に分かれた珍しい造りになっています。

御成の間(奥)と次の間

御成の間(奥)と次の間。家老などの家来用の次の間は、西郷も使ったことでしょう

熊本市北区四方寄町1274
(開館)9時30分~16時30分
(休館)月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始


明治天皇とともに西郷が来熊

明治天皇小島行在(あんざい)所

明治5(1872)年6月、明治天皇は西国巡幸の際に、熊本藩が献上した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」で小島沖に到着し、木造2階建ての行在所で1泊されました。この巡幸に西郷が随行していたのです。西郷は、行在所での軍関係者の不手際に怒って、出されたスイカを投げ割り、それを天皇が2階から見ておられたという話(ただ庭の石で割って食べたという説も)も残っています。

庭には、「明治天皇行在所保存記念碑」が建っています

庭には、「明治天皇行在所保存記念碑」が建っています


西郷の盟友・長岡監物ゆかりの寺

見性寺

熊本藩家老の米田家の菩提(ぼだい)寺。境内には、西郷と交流の深かった熊本藩家老の長岡監物(米田是容)の墓道表があります。西郷は鹿児島から江戸への行き帰りに監物宅を訪ね、時事について相談しています。大久保利通に監物のことを「肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をもみることならぬ様に云々(長岡先生のような素晴らしい人は今ではいなくなった)」と言うほど、彼を信頼していたそうです。

見性寺は、必由館高等学校のすぐ近くにあります

長岡監物(米田是容)墓道表

長岡監物(米田是容)墓道表。監物は横井小楠らと協力して、藩政改革に尽力した熊本の英傑


西郷はじめ勝海舟や龍馬も宿泊

御客屋・会輔堂跡

新町の一新幼稚園は、かつて熊本藩の迎賓館である御客屋があった場所。幕末、勝海舟と坂本龍馬が来熊したときに宿泊。維新後は、明治天皇が西郷隆盛を従えて巡幸の際に2泊されています。


かつての県庁へ明治天皇がご訪問

明治天皇行幸白川県庁跡・古町公園

明治4(1871)年の廃藩置県で熊本県が発足。熊本県庁は最初、旧花畑邸に置かれましたが二の丸に移ります。翌5年、二本木に新築移転し、県名が白川県に改められたため白川県庁となります。西国巡幸中の明治天皇が、この県庁に立ち寄られました。随行していた西郷も一緒だったと思われます。

明治天皇行幸白川県庁跡・古町公園


西郷のルーツは菊池にあり!

西郷隆盛は、菊池一族の子孫といわれています。菊池氏初代・則隆の子の政隆が、菊池市七城町の西郷地区に居を構え、西郷太郎と称したことが西郷家の始まりとか。26代の昌隆が島津氏に仕えることになり鹿児島へ。初代から32代目に当たるのが隆盛なのです。

安政の大獄の際、西郷は幕府から逃れるため奄美大島に潜伏しますが、そのとき使っていた名前が「菊池源吾」。これは、菊池一族の子孫であることを意識して付けたという説があります。菊池氏の末裔(まつえい)であることを、誇りに思っていたのかもしれませんね。

増永城址

増永城址。別名を西郷城とも呼ばれ、菊池政隆が築いた城です。下の若宮神社の一角にあります

西郷南洲先生祖先発祥之地

七城町にある若宮神社の境内には、「西郷南洲先生祖先発祥之地」という石碑が建っています

見学の際は寺や民間の施設もあるので、節度ある行動をお願いします