【402号】すぱいすフォーカス – 幕末維新期 編 西郷さんと熊本[下]

150年前の明治維新で活躍した西郷隆盛(南洲)。10年後には、日本における最後の内戦となった西南戦争を起こします。この戦いで西郷はどう動いたのか? 前号に続き、熊本市を中心にゆかりの地を紹介します。

話を伺ったのは

熊本市立 熊本博物館 学芸員(歴史)
木山 貴満さん

専門分野は、熊本近世後期から近代初期政治史等と、幕末維新期軍事史に関して研究

木山 貴満さん

西南戦争では、熊本の各地で戦闘が繰り広げられました


熊本城を皮切りに各地で激戦を展開

明治10(1877)年、新政府への不満を募らせた鹿児島の士族らが西郷隆盛を擁して挙兵、西南戦争が勃発しました。2月15日、薩軍は鹿児島を出発し20日、先鋒隊が川尻に到着します。「翌21日には西郷も川尻に入りましたが、それから先の彼の動きははっきりしていません」と木山さん。その後、薩軍は熊本城をはじめ熊本各地で政府軍と激戦を繰り広げますが、それらの指揮は桐野利秋ら部隊長が執っていました。「西郷は本営にいたと思われますが、彼自身が前線に立つことはなかったんです。有名な田原坂の戦いにも行っていません」。田原坂や熊本城攻防戦に敗れた薩軍は、4月15日に熊本市から退き、戦闘を続けながら南下。「西郷が最前線に立つのは、最終盤の延岡の和田峠の戦いなどです」。この戦いにも敗れた西郷は鹿児島へ逃れて9月、城山で没します。「西郷の真意は分かりません。ただ当時の振る舞いからすると、彼自身は戦争に積極的だったのかどうか疑問が残るところです」と木山さんは話してくれました。

西南戦争激戦マップ

西南戦争では、熊本城攻防戦や田原坂の戦いのほか、高瀬(玉名)や山鹿、熊本市東部、八代、人吉なども戦場となり、県内は大きな被害を受けました。田原坂の戦い後、薩軍は本営を木山(益城)に移しながら敗走。その後、人吉攻防戦、宮崎の都城と和田峠の戦いを経て、9月24日、政府軍の城山総攻撃で戦争は終結しました。

熊本市での戦況

薩軍は最初に川尻に本営を置きましたが、熊本城を攻撃するために城下近くに本営を進めました。本営は戦況によって二転三転し、本荘、北岡神社、春竹、二本木にあったと伝えられています。

熊本城戦争の図

錦絵/熊本城戦争の図(熊本博物館所蔵)


熊本各地や南九州を転戦

熊本城攻撃のための本営に

北岡神社

加藤清正が再興した由緒ある神社。熊本城を見渡せる高台にあるため、西南戦争では、熊本城を攻撃するにあたり、ここに薩軍本営を移したといわれています。


薩軍兵士の野戦病院 853名を埋葬

延寿寺

明治10(1877)年2月21日、西郷が川尻に入ったその日、薩軍はこの延寿寺で西郷を交えた軍議を開いたといわれています。さらに開戦後は、野戦病院としても使われ、各地から戦死傷者が運ばれました。同寺に薩軍兵士853名が埋葬され、その墓は薩州墓と呼ばれていたそうです。

「薩軍本営並野戦病院跡」の石碑

寺門を入って左手にある「薩軍本営並野戦病院跡」の石碑


政府軍の砲撃を受け この地へ後退

二本木神社

北岡神社に本営を構えていた薩軍でしたが、一度は占拠した段山を政府軍に奪回され、砲撃が北岡神社まで及び、本営を二本木へ移しました。実際の本営は、二本木神社西裏手の質屋・築地悌四郎方にあったとされます。

「西郷隆盛先生本営之阯」の石碑

神社の境内には、「西郷隆盛先生本営之阯」の石碑があります


泰養寺

薩軍であふれかえった川尻、この泰養寺に本営が置かれたという説もあります。


本陣跡(小路町)

江戸期、参勤交代などで使われた本陣跡も薩摩街道沿いにありました。


西郷が本営を構え宿営した町家

川尻陸軍本営跡(今村家住宅)

薩軍の到着直後、川尻は1万5000人余りの薩軍兵士で埋め尽くされたそうです。西郷は商家だった今村家に宿営したとみられ、「新政大総督 征伐大元帥西郷吉之介」の表札を掲げました。玄関前には「明治十年戦役南洲翁本營跡」の碑があります。この住宅は、江戸末期の建物で、現在も今村家の住居として使われています。

見学の際は寺社や民家もあるので、節度ある行動をお願いします