知る人ぞ知る!? ご近所レジェンドたち
「レジェンド」はスポーツやエンターテインメント、政財界など、さまざまな分野で偉業を成し遂げた人や功績のあった人を称える称号の一つ。誰もが知るあの人でないけれど、実はあなたの身近にも”知る人ぞ知る”伝説の人が暮らしているかも!? そんな熊本のレジェンドたちを紹介します。
まさか!? こんなところで見つけた”すごい人”
紹介する4人は、どの人もいずれ劣らぬ実績を残している人ばかり。素晴らしいのは、偉業を自慢することはせず、今も社会のために活動しているところ。そんな“レジェンドさん”に話を聞きました。※当時の写真・記事は本人提供
レジェンド【legend】
伝説。言い伝え。また、伝説上の人物。偉大な功績をあげた人物を指す意味合いで用いられることが多い。
01.[ヨットで太平洋を一周] 安樂 英行(あんらく ひでゆき)さん
激突寸前で九死に一生の体験も 自然を敬い、人を信じる大切さ伝授
高校1年生の夏休み、中学時代の友人たちに話した「南太平洋に行ってみたいな」という安樂英行さんの何げないひと言から生まれた「太平洋一周」という壮大な夢。普通ならば、ただの妄想で終わるところを、安樂さんらは実現に向けてヨットに関する知識、技術の習得や資金確保のための貯金など、着々と準備を進めました。そして、夢を語り合ってから約10年後の1980年、当時の同級生3人と共に、自作ヨットで太平洋一周に出航。北太平洋を経て北米に渡り、その後、ハワイ、フィジーなど南太平洋の島々を経由して日本に戻りました。
「夜中、岩礁に激突寸前で助かった経験も。そこで感じたのは、目には見えない大きな力の存在と、人(仲間)を愛し信じることの大切さ」と、1年にわたる航海で得たものを語る安樂さん。
その貴重な経験を若い世代にも伝えたいと、15年ほど前にNPO法人「くまもと青少年ヨット協会」を設立。さらに、昨年からはセーリング(帆走)の楽しさを体験してもらう「サザンクロスセーリングクラブ」を立ち上げました。「船という一つの“社会”の中で、一人一人が役割を担うことで、たくましさや問題解決のヒントをつかんでほしい」と、青少年にヨット体験の場を提供しています。
安樂 英行(あんらく ひでゆき)さん
1956年、熊本市生まれ。高校時代に友人たちと抱いた夢を実現するため、卒業後、ヨット製作会社に入社し技術を磨く。25歳から1年かけて太平洋一周に成功。現在は、会社経営の傍ら、その時の経験を生かした講演活動や、ヨットや海での体験を通じて子どもたちの心と体を育む活動を行うNPO法人の顧問を務めている。
02.[水泳でオリンピック日本代表候補] 有田 迪子(ありた みちこ)さん
かつては世界目指したスイマー 100歳になっても泳ぎ続けたい
小学校高学年の時に見た水泳選手の模範泳法に魅了され、中学校で本格的に水泳を始めた有田迪子さん。得意だった平泳ぎでみるみる頭角を現し、中学3年時に日本選手権で5位となりました。その後、当時はまだ珍しかった水泳留学で、和歌山県の強豪・伊都高校に進学。1日2万mを泳ぐスパルタ練習を課せられますが、「どんなにきつくても大好きな水泳をやめようと思ったことは一度もなかった」と振り返ります。
卒業後は、実業団チーム「大阪東レ」に所属して活躍。1956年のメルボルン五輪、60年のローマ五輪では日本代表候補にも選ばれました。引退後は熊本に戻り主婦業に専念しますが、40歳の頃に水泳熱が再燃。子育ての傍ら、競技役員や審判員として大会運営を支えたほか、芦北町営プールの所長に就任したのを機に指導者としても活動を始めました。「泳ぐ楽しさを伝えたい」との思いから、町民への水泳普及に尽力しました。
84歳になった現在、指導者は引退しましたが、選手として精力的にマスターズの大会への出場を続ける有田さん。「百歳になっても大好きな水泳を続けたい」と目標を語ります。
有田 迪子(ありた みちこ)さん
1939年、中国・大連生まれ。7歳の頃に母の故郷である芦北町へ移住。中学時代から本格的に水泳を始め、和歌山県立伊都高校を経て、実業団チームで活躍。メルボルン五輪などの日本代表候補に選ばれる。引退後は、審判員やマスターズの選手として水泳に関わる。お笑いコンビ「くりぃむしちゅー」の有田哲平さんは実の息子。
03.[体操競技を経て世界的パフォーマー] 宮 海彦(みや うみひこ)さん
シルク・ドゥ・ソレイユで活躍 菊池に移住し「農」の魅力発信
幼い頃から体操に打ち込み、高校時代にはインターハイなどでの優勝を経験するなど、日本トップレベルの実力を誇った宮海彦さん。自身も周囲もオリンピック出場を期待する中、大学時代は成績が低迷。卒業後、「生きる意味を考えたい」との思いから青年海外協力隊としてパナマに渡り、体操指導に当たりました。
その後、米国でコーチとして経験を積む中で体操への情熱が再燃。「自分が培ってきたスキルを、競技以外にも生かせないか」と考え、世界最高峰のサーカス集団シルク・ドゥ・ソレイユにプロフィール動画を送ったところ採用が決定しました。以来、2019年までの10年間、人気演目「トーテム」の中心メンバーとして世界各地を巡る日々を送りました。
退団後、海外で舞台俳優として活躍していた宮さんに転機が訪れたのは2020年。コロナ禍で舞台のキャンセルが相次ぎ帰国を決意。自転車で日本一周していた際に立ち寄った菊池を気に入り、昨年1月に移住しました。以前から興味のあった農業をエンタメ化することで、より多くの人に興味を持ってもらおうという「農タメ」を発信。ゴボウ抜き体験を競争形式のイベントにするなど、ユニークな取り組みを行っている他、競技経験を生かした体操教室やバック転教室も開催しています。
宮 海彦(みや うみひこ)さん
東京都生まれ。5歳から体操を始め、高校時代には2種目で全国優勝を果たすなど将来を嘱望される。大学卒業後、青年海外協力隊、アメリカでの体操コーチなどを経て、2009年にシルク・ドゥ・ソレイユ入団。10年間活躍した後、舞台俳優に転身。コロナ禍に自転車で日本一周をしていた際に菊池の人と自然に引かれ移住を決意。
04.[映画「007」に出演] 田尻 康博(たじり やすひろ)さん
人気スパイ映画に「忍者役」で出演 今は防災啓発に取り組む自治会長
子どものころから“銀幕のスター”石原裕次郎さんに憧れていた田尻康博さん。熊本商業高校卒業後、一度は地元の電気会社に勤めたものの、夢を諦めきれず、親の反対を押し切り20歳で上京しました。
特技の器械体操を生かし、スタントマンとしての仕事が徐々に増えつつあったころ、当時大人気だったスパイ映画「007」シリーズの新作が日本で撮影されるという話が舞い込みます。得意のアクションが認められ、田尻さんは「味方の忍者役」でキャスティングされました。鹿児島県の開聞岳や兵庫県の姫路城のほか、英国ロンドンでの撮影にも参加。爆破シーンの撮影では、監督のこだわりでどこが爆発するのか事前に知らされず、「まさに死に物狂いの撮影だった」と振り返ります。映画は反響を呼び、田尻さんは売れっ子に。27歳で引退するまでに多数の映画や子ども向け番組に出演しました。
現在78歳の田尻さんは、大江校区第4町内(中央区)の自治会長として活動。特に力を入れているのが、幼いころ白川大水害で被災した経験を基にした防災啓発です。俳優時代と変わらぬ輝くまなざしで、「地域を守る活動をしていきたい」と意気込みを語ります。
田尻 康博(たじり やすひろ)さん
1944年、熊本市生まれ。得意の器械体操を生かして俳優・スタントマンとして活躍し、映画「007は二度死ぬ」などに出演。27歳で俳優業を引退し帰熊。会社員として勤めた後、現在は町内自治会長として地域の防災啓発に取り組む。
きっと役立つ! レジェンドたちのモットー &習慣
人一倍努力して何かを成し遂げた人の言葉や習慣には、私たちの日々の生活や目標に向かって頑張ろうとするときに役立つヒントがあるかもしれませんよ!
敬天愛人(天をうやまい、人を愛する)
心を整えるために、朝起きたらお経を唱え、今日一日への感謝の言葉を唱和するというのを10数年続けています。
安楽さん
何事も一生懸命やれば、夢は叶う
水泳のほか、日本舞踊を続けています。日々体を動かし、頭を使うことが健康でいられる秘けつです。
有田さん
この世に「失敗」はない!(すべては「経験」)
ルーティンを行って自分を安心させるのは、不安の裏返しでもあるので、一つの習慣にあまり頼り過ぎないようにしています。
宮さん
人生は楽しい!
毎朝、町内の公園のトイレを掃除し、トイレットペーパーを補充しています。とても心が充実します。
田尻さん