熊本地震から7年 “再興”へつなぐストーリー
熊本地震の発生から丸7年が経過。
建設型仮設住宅の中で唯一残っていた「木山仮設団地」が3月末、閉鎖されました。
多くの被災者がそれぞれの”再興”へと歩みを進める道のりには心温まる物語がありました。
心ひとつに応援 前へ進む力に
どんなに苦しい状況でも誰かの応援が心を軽くし、お互いの思いがつながれば、前へ進む大きな力になります。
被災地の3つのストーリーは、そのことを伝えています。
※ニュースアプリ「グノシー」で4月14日、この特集のより詳しい記事が配信されます
木山仮設団地
町民の困り事に寄り添っていく
熊本地震の被災者が暮らす建設型仮設団地は、県内16市町村に110カ所整備されました。住まいの再建が進み、仮設団地は徐々に閉鎖。唯一残っていた木山仮設団地(益城町)も最後の1世帯が3月下旬に退去し、役目を終えました。
仮設団地の住民の生活支援をしてきた益城町社会福祉協議会が運営する地域支え合いセンターは、住民の交流を図る「お茶会」を定期的に開いてきました。センター長の遠山健吾さんは「運営を手伝ってくれる、たくさんのボランティアとつながりができたことは財産」と話します。お茶会は3カ月に1回開催。和気あいあいと話をすることは、住民の心のケアになりました。
センターやボランティアに支えられてきた仮設団地の住民の意識には変化がありました。令和2年の熊本豪雨の際には、入居者を含む町民が被災した人吉や球磨村へ数回、ボランティアに出向いたそう。「『私たちはいつまでも被災者じゃない。できることで応援しよう』と話す人が増えました」
独居高齢者などには今後も定期的な見守りを行い”伴走”します。「ちょっとした変化で体調不良のサインに気づいた職員もいて、想像以上に住民とつながりをつくってきたことを感じます。今後も地域とつながり、町民の生活の困り事に寄り添える活動を続けます」
木山神宮
「おみこし」で町の祭りをつくる
益城町木山の木山神宮は、江戸時代に建立された神殿をはじめ、境内のすべての建造物が全壊しました。現在も作業が進む神宮再建を通し、宮大工を養成する球磨工業高校伝統建築専攻科の生徒たちとのつながりができました。
文化財レスキュー活動を行った同科の生徒らは、木山神宮の倒壊した神殿から江戸時代の神殿彫刻を救出しました。その彫刻の裏には江戸時代の宮大工による墨書きがあり、後に神殿が町の重要文化財に指定される決め手に。県と町から補助金が支給され、神宮の復興を大きく後押ししました。禰宜(ねぎ)の矢田幸貴さんは「雨の中、かっぱを着て丸2日間、不満を言わずに作業に当たってくれた生徒の瞳を忘れません」と話します。「必ず復興しなければならないと私の心に誓わせた原点になっています」
昨年春からは、生徒らの授業の一環で木山神宮の「おみこし」製作が行われ、間もなく完成を迎えます。矢田さんは町に新たな祭りを創出し、そこで生かしていきたいといいます。「10年後、20年後に、この町で生まれた青年たちがおみこしを担ぐ時、熊本地震からの復興を願って作られたものだということを語り継ぎ、地震の記憶を風化させないようにしたい。そして、故郷のにぎわいの核となってほしい」。矢田さんは瞳を輝かせて町の未来を見つめます。
おみこしの製作に携わった球磨工業高校伝統建築専攻科の生徒たち(昨年度の2年生)
南阿蘇村
学生の帰る場所 ずっと守りたい
南阿蘇村の旧東海大学阿蘇キャンパスは熊本地震で被災し、「学生村」と呼ばれていた黒川地区から約800人の学生の姿がなくなりました。地震から6年たった昨年春、村にIT系専門学校が開校。新たな学生たちが入ってきました。「村に若者たちの姿が戻ってきて、涙が出ました」と振り返るのは、学生村で長く下宿を営んできた竹原伊都子さん。
かつて学生たちが住んだ下宿「新栄荘」には熊本地震以降、工事関係者が入居しているため、竹原さんが営む別のアパートに日本人学生2人と、インドと中国からの留学生2人を迎えました。学生の希望に応じて下宿の食堂で朝・夕の食事や昼食用の弁当を提供します。学生の歓迎会には下宿のOBもたくさん集まり、バーベキューを楽しみました。「人間って一緒にご飯を食べると、すぐ仲良くなれるものよ」と竹原さんはほほ笑みます。
20歳で夫の家業の下宿を手伝い始め、42年間で300人以上の学生を世話してきました。中には竹原さんが仲を取り持ち結婚したカップルもいます。社会人になってからも、下宿に顔を出す人が多いそう。「年末には『おばちゃん、正月に帰っていい?』って電話が来ます。『遊びに行っていい?』じゃないのがうれしかよね」
学生たちの”帰る場所”を、できるだけ長く維持したいという竹原さん。この4月には、新たに4人の学生を迎えます。